箱根駅伝の4連覇を達成した青山学院大学。強豪校に押し上げた立役者として注目されたのが、監督の原晋さんです。その陰には、監督の妻として、寮母として、チームを支えてきた原美穂さんの存在がありました。
広島でサラリーマンの妻をしていた原美穂さんが、突然寮母を任された経緯や、主体的に選手に関わるようになった時の気持ち、選手の食事や生活リズムで気を付けていることなどをお伺いしました。
プロフィール
- 原美穂(はら みほ)
- 青山学院大学体育会陸上競技部町田寮寮母。2004年、夫の原晋氏が3年契約で青山学院大学陸上競技部長距離ブロック監督就任と同時に、住みなれた広島を離れ、陸上競技部町田寮寮母になる。初代寮母として、ゼロから寮のルール作り、選手のサポートを行ってきた。
「寮にいてくれればいい」といわれて寮母になったものの…
青山学院大学陸上競技部の監督であり、夫の原晋さんと。
もともと、陸上競技なんて全く知らない人間でした。サラリーマンの主人と結婚して、そのまま生活するのだろうと思っていたんです。そうしたら、突然主人が「仕事をやめて監督になりたい」と。住まいも広島から東京になるということでした。
それは驚きですね。どんな気持ちだったのでしょうか。
監督という仕事が全くイメージできず、それが仕事になるのかと不安で、反対もしました。でも、最終的にやることになってしまったんです。
それは、後から決まったんです。大学が、物件を買って寮を作ることにしたから、寮母さんが必要だよね…と。最初は「いてくれればいいから」ということでした。
陸上競技のことを何も知らないまま、寮母として東京へ引っ越すことになりました。
でも、大変な覚悟が必要だったのではないでしょうか。新しい場所で、仕事も人間関係も何もかも変わってしまいますよね。
小さな頃から父の転勤で転校ばかりしていたので、なるようになるし、環境に慣れてやっていくしかない、という前向きな考え方を持っていました。だから、くよくよしたりすることはなかったですね。
「いてくれればいい」といわれてから、選手たちのサポートをするという気持ちの変化は、どのように訪れたのですか?
選手と一緒の寮に住んでいましたが、部屋の中にいれば学生と関わらずに生活はできたんです。でも、部屋を出るたびにお化粧をして、顔をあわせればよそよそしい感じになる。それが負担になってきたんですよね。
暇なので少しずつ手伝えることを探して、さらに寮の中も日常生活という感覚になってきて、少しずつ仕事ができてきました。引っ越してから半年くらいたった頃ですかね。そうしたら、彼らの生活で「もっとこうしたらいいんじゃない」というところが見えてきたんです。
寮内に飾ってある優勝カップや寄せ書き。
「バランスよく、完食してほしい」と思いはじめ、ルールを変更
学生さんたちの生活に課題が見えてきたんですね。どんなところですか?
寮には食事を作る場所がないので、ケータリングをお願いしています。最初はバイキング方式で置いてあって、好きな時間に好きなものを食べる形式でした。後片付けをしたり、配達の人と話していると、特定のメニューがすごく余ることがわかってきました。
そうです。野菜や煮物などは全然食べられていないんです。これではケータリングを取っている意味がないし、栄養バランスも保てません。アスリートという感覚が抜け落ちているのではないかと…。
大学生になって、初めて親元を離れたという人も多いからでしょうか?
最初の頃は特に、名門校から入学してくる選手が少なかったので、寮生活は初めてという人も多かったんですね。実家では、親御さんが好きなものを作ってくれたのかもしれません。寮でも、コンビニで好きなものを買ってきてその日をしのぐような子もいて、「これではいけない」と思いました。
監督や寮長と話しあって、朝と夜の食事の時間を決めることにしました。盛り付けと配膳をしたあと、みんなで一緒に「いただきます」をして、残してはいけないというルールにしたんです。
食事の時には、選手と一緒に盛り付けや配膳をすることもあります。
毎日食べるものですから、それだけでずいぶん違うでしょうね。選手の体調などは変わりましたか?
寮では、全員に配膳し、朝、夕食ともそろって食べることにしました。ご飯をしっかり食べ、睡眠も足りているので、練習も集中して効果的にできるようになりました。
食事を改善するとそんなに影響があるんですね!ほかに、食事で気を付けていることはありますか?
私は管理栄養士などの資格を持っているわけでもないので、少しずつわかってきたとはいえ素人です。私にできるのは、食事の時間を楽しくして、コミュニケーションをとる場所にすること。月に1回は席替えをして、いろいろな人と話してもらうようにしています。それが、全体のチームワークにもつながっていくと思っています。
試合前などに、気を付けていることなどはあるのでしょうか?
ハーフマラソンくらいの長い距離の場合は、カラダのエネルギーを使いながら走ります。試合の4日前くらいからは、炭水化物を多めに採って、カラダの中に糖分を溜めておく必要があるんです。選手たちは、成績のために太りたくないのですが、試合前は「しっかり食べないと走れないよ」と伝えています。
食べ物以外の体調管理で気を付けていることはありますか?
特に気を付けているのは、寒暖差が激しい時。風邪や胃腸炎になる子がけっこういるんです。学校へ行く時は暖かくても、「帰りは寒くなるから気を付けて」と声をかけるようにします。
後先考えず薄着で出かけてしまう、というのは学生くらいならよくありそうです。
それから、陸上選手は足が商売道具なので、冬の靴下は必ず履かせます。下級生のうちは意識していない子もいますが、食事の時に靴下を履いていないと部屋に取りに行ってもらうほどです。
いただいた差し入れを剥いてあげることもあるのだとか。
学生にとってちょうどいい距離感で、頼られる人でありたい
原監督や選手の努力、美穂さんのサポートなどにより、青山学院大学は強豪校になっていきました。
せっかく慣れても、4年で卒業してしまうことですね。また、新入生が来るたびに価値観が変化しているので、それに付いていくのが大変です。例えば、以前なら1年生が入ってすぐは、彼らを仲良くさせるのが私の仕事のひとつでしたが、今はLINEなどでつながっていて、先に仲良くなっているんです。
いいことなのかもしれませんが、戸惑いはありますね。
私はどんどん年を取るけど、学生は入れ替わるので年齢が変わりません。若い世代に付いていくのが大変ですね。
お友達でもないし、お母さんでもない。でも、今は一番近くにいる大人なんだと思います。お母さんにいいづらいことを私に相談してくれることもあります。身近で一番応援している存在でありたいし、適度な距離感で、頼ってもらいたいと思っています。
寮母として嬉しい瞬間や、この仕事の醍醐味はありますか?
学生が楽しくしている様子を見るのが一番嬉しいですね。卒業する時に「この学校でやれてよかった」と思ってくれれば、寮はその一端を担っているはずです。それが、やりがいや喜びになっています。
箱根駅伝の優勝というのは、本当に嬉しいことではありますが、それが一番だとか、目的だとかは考えていません。毎日頑張っていることのご褒美だと思っています。いい成績を残したということは、寮生活も少しは役に立っているということですから。
そういう目線の人がいると、学生さんたちは安心でしょうね。
例えば、自己ベストを出した時は、いつもそれほど口数が多くない子でも、嬉しそうにたくさん話してくれます。その様子を見るだけで、とても幸せな気持ちになります。私が直接感謝されたいという気持ちもなくて、嬉しいことや楽しいことの一部を支えてあげられればいいと思っています。
陰で支える美穂さんの笑顔が、選手たちの安らぎになっていることでしょう。
取材後記付かず離れず、適度な距離で選手たちを見守っている原美穂さん。選手たちにとって、カラダのコンディションを保つのは練習以上に大切なことかもしれません。栄養のバランスや、カラダを冷やさないことなど、見逃しがちなところで毎日の生活を支えています。これからも、青山学院大学の選手たちが思いっきり走れるようにサポートしていってくれることでしょう。
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